*御神意を覚れ

これは以前も書いた事があるが、本来人間というものは、神様の御目的たる理想世界を造る役目で生まれたものである以上、その御目的に叶うようにすれば、いつも無病息災愉快に働ける。これが不滅の真理である。ところが何しろ祖先以来の薬毒があり、また生まれてからも本当の事を知らないがため薬毒を入れるので、それがため病気に罹る事もあるが、これもやむを得ないのである。しかし神様は、お役に立つ人が病気のため働けないとすれば神様のほうでは損になるから、速やかに治して下さるのは当然で、何ら心配はないのである。ところがそれを知らない人達は、薬と称する毒を用いて病気を抑えるのであるから、全く真理にはずれており、順調に治る訳はないのである。
この事はひとり病気ばかりではない。それ以外あらゆる災いも同様であって、すべては浄化作用である。しかし同じ浄化作用でも、原因によっては浄化の形もおのずから違うのは勿論である。例えば金銭や物質の罪である盗み、使い込み、人に損をかける、分不相応の贅沢をする等々の罪穢は、やはり金銭や物質で償われる。世間よく金持ちの息子などが道楽者で、親の遺た財産を湯水のように使う事なども、親や祖先の罪障消滅をさせられるのである。それというのは、祖霊が自分の血統を絶やさぬよう、ますます一家繁栄を望むため、子孫の中の一人を選んで浄化にあたらせるのであるから、この場合何程意見しても糠に釘である。
例えばここに二人の兄弟があり、兄はドラ息子で手がつけられないが、弟は律儀真道であるとする。ちょっと考えると兄のほうが悪く、祖先の名を傷つけるように思えるが、大乗的にみるとその反対である。なぜなれば祖先の罪穢を消す点からいえば、兄のほうが上だからである。というように、人間の考えで善悪は決められるものではない。
また火事で焼け、泥棒に盗られ、詐欺にあい、相場や競馬、競輪等で儲けようとして損をしたり、商売の失敗、病気で金を使う等々、すべて物質の罪は物質で浄化されるのであるから、たとえ人間の法律は免れ得ても、神の律法は絶対であるから、どうしようもない。
従って人間の眼を誤魔化す罪は眼病、耳に痛いような言葉の罪は耳の痛みや舌の病、人の頭を痛めるような行為は頭痛、自己の利益のみに腕を奮う罪は腕の痛みというように、すべて相応の理によって浄化が行われるのである。
またこういう事もある。それは信仰へ入ってからの苦しみである。しかも熱心になればなるほど一層苦しむものである。
そこで信仰の浅い人はつい迷いが起こるが、この時が肝心である。この理は何かというと、神様はその人の熱心に対して早く御利益を下されようとするが、まだ汚れがあるから浄めねばならないので、入れ物の掃除としての浄化である。その場合少しも迷わず辛抱さえすれば、それが済むや思いもかけない程の結構なおかげを戴けるものである。
これについて私の経験を書いてみるが、私は二十年間借金に苦しめられ、いくら返したいと焦っても駄目なので、とうとう諦めてしまった。それが昭和十六年になってようやく全部返す事が出来たので、ヤレヤレと思った事である。すると翌十七年になるや思いもかけない程の金が入り始めたので、今更ながら御神意の深さに驚いたのである。
また世間よく焼け太りなどというが、これも浄化が済んだから運がよくなった訳である。かの熱海の火事にしてもそうで、焼ける前と今日とを比べたら雲泥の相違である。以上によってみても、善い事は無論結構だが悪い事も浄化のためで、それが済めばよくなるに決まっているから、どっちへ転んでも結構な訳で、無病結構、病気結構としたら、これこそ真の安心立命である。といってもこれは信仰者に限るので、無信仰者はむしろ反対であり、苦しみが苦しみを生み、焦れば焦る程悪くなるばかりで、遂には奈落の底へ沈むようになる。この理によって人間幸福の秘訣は、この道理を弁える事である。

【昭和28年(1953)御発表】

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