*転向者の悩みに応う

ある宗教信者から他の宗教に転向する場合、人により大小それぞれの悩みのあるのは致し方ないとしても、ここに発表する左記の投書(本紙には省略)のごときは、偽らざる心境の変化と、転向の悩みをつぶさに書き連ねており、せつせつとして真に胸に迫るものがある。今後転向者がたどるであろうこの悩みの解決も、重要なる救いの一面であるから書いたのである。そうして仔細に検討する時、その焦点は左記のごときものである。
その人はキリスト教プロテスタント派の有力な信者とのことであるが、勿論このような人の場合は、ひとりキリスト教徒に限らず他の宗教信者にも相当ある例である。 勿論他宗にふるるべからずという厳重な戒律の枠によるためであるが、これは何が原因であるかを説いてみよう。
そもそも、いかなる宗教にも大乗門と小乗門とあり、常に吾等の説くごとく小乗とは火であり経であるに対し、大乗とは水であり緯である。従って小乗は戒律を旨とし、大乗は自由無碍を本義とする。この理によって転向の悩みは小乗的戒律のためで、大乗的においては転向の悩みなど全然ないのである。ということは、いかなる宗教といえどもその本源は主神即ちエホバ、ゴッド、天帝、仏陀等からであって、全世界あらゆる民族、地域、時代によって、神の代行者としてキリスト、釈迦、マホメット等を始めその他の聖者、賢哲を輩出され給うたのであるから、勿論大小の優劣はあるにはあるが、その本源は同根である。
また人間にあっても上根中根下根の差別があるから、その魂相応に受け入れられるべき宗教を必要とするのである。例えば、深遠なる教理でなければ満足できない者もあり、鉦、大鼓や種々の楽器、読経、舞踊等によらなければ納得しない大衆的信仰もあることによってみても明らかである。また別の例をいえば世界各民族間にもその伝統、慣習、趣味、文化の高下等の差別がおのずからあるにみても、よく分かるのである。
これによってこれをみれば、小乗信仰は人間が限界を作り、それに捉われて苦しむので、これは非常な誤りである。神の大愛とは、そんな極限された小さなものではな いにかかわらず、現在あるところの宗教のほとんどは小乗的で、大乗的完全無欠なものはほとんどないといっていい程である。もしありとすれば、今日のごとき苦悩の世界はすでに消滅し、地上天国は生れていなければならないはずである。従って既成宗教は、多かれ少なかれ欠陥をもっている。その欠陥の一 つが前述のごとき小乗的見解であって、それがために主神の大愛に帰一するあたわず、宗教同士の醜い争いも絶えないのである。一宗一派のなかにさえ派を立て、鎬をけずり、軋轢の絶え間ないということもそれであり、古き時代ヨーロッパにおける宗教争いが、終わりには大戦争さえ起したにみても、小乗信仰の如何に恐るべきかを知るのである。
右の点に鑑み、本教においては大乗を主とし小乗を従とする以上、厳しい戒律はなく実に自由解放的である。一言にしていえば全人類を抱擁し、世界主義的構想である。
従って本教においては、他信仰にふれることはいささかもとがめない、絶対自由である。例えば、本教信者であって他の宗教を研究しても何等差し支えないのみならず、万一本教よりもすぐれたる宗教があれば、それに転向することも自由である。とともに、一旦他宗教に転向した者が再び本教にもどることあるも、これまた差し支えないのである。
元来信仰というものは、人間の魂の底からおのずから湧き出で、やむにやまれず信仰する態度こそ本当のものである。しかるに転向そのものを罪悪のごとく教えられ、 それに従わねばならぬことは、全く一種の脅迫によって信仰を持続させようとするのであるから、自由意識を圧迫し、自己欺瞞である。このような信仰こそ神の御旨に適うはずはないのである。真の信仰とは、あくまで自湧的で何等拘束のないことを忘れてはならないので、本教が大乗を主とする所以もここにあるのである。

【昭和24年(1949)御発表】

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