*真の救いとは何ぞや

今日批判者の決まっていう言葉は、本教が宗教でありながら治病に専念するというのは、間違っているというのである。しかしよく考えてみると、こんな訳の分からない話はない。何となれば右のような批判者の考え方は、宗教なるものは精神的方面のみの救いで、物質方面は宗教の分野ではないと決めているからであろう。従って病気治しというごときは、物質方面であるから宗教でないと思うのである。彼等は物質的救いとは宗教を逸脱しているように思い、精神的方面のみが宗教の本質と決めてかかっている。もちろん彼等の思う精神的救いとは、一言にしていえば諦めである。苦悩を物質的に救う力はないから、やむを得ずせめて精神上の諦めだけでも苦悩を減らそうとする訳である。これが今日までの宗教に対する多くの人の観念であったことである。ところが物質を度外視し、精神方面だけの解決では実際上の救いとはならない。というのは、物質的解決が可能である事の実証を信ずるからこそ、精神的にも真の安心を得られるのである。例えば腹の減った場合、いずれ誰かが食物を運んでくれるという信頼があってこそ安心が出来るので、誰も持って来ないと分かったら餓死の恐怖に怯えるのは当然である。その他病気にしても生活苦にしても、信仰 によって解決出来るということを認識するから、真の安心が得らるるのである。このように物心両面の解決こそ、真の安心立命の境地に救い得らるるのである。
とすれば物心共救いの根本は、病気を解消し健康人たらしめること以上のものはない。たとえ金銀財宝が山と積まれても、山海の美味が食膳に堆高く積まれても、地位や名誉がいか程与えられても、病苦に悩んでいたら一切は零である。しこうして人類を救う第一条件としては、何よりもまず健康の達成であらねばならない。本教が救いの根本として、病なき人間、病なき社会を目標とするのは右の意味にほかならないのである。

【昭和24年(1949)御発表】

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